子どもの頃から漫画原作を勧められていて今まで履修してこなかった『BANANA FISH』のアニメをつい最近見た。
映像も音楽もストーリーも美しく、泣けてしまった。忘れないうちに自分の感想を残しておきたい。
アッシュは憧れの対象
アッシュは美形・頭脳明晰・身体能力抜群で、とにかく生存能力が高い。何故、スラム街のギャング達が彼に従ったのか?はアニメ版では明かされることはなかったが、こうも三拍子揃ったキャラクター設定では、見る方もそんな説明がなくてもアッシュに惚れてしまう。
本作はアッシュに惚れた者同士が、様々な形で愛情表現を露出し、結果的にアッシュを翻弄する話だ。
- 自分の色に育て上げようとする者
- ライバルになりたい者
- メンタルサポートする者
- 身体能力で手助けする者
- ジャーナリストとしての立場から手助け・応援する者
- 屈折して嫉妬する者
- 所有物にしようとする者
登場する主要人物の殆どが、屈折している・真っ直ぐであるという違いはあれど、アッシュに惚れこんでいく
奥村 英二は何故か特別扱い
アニメ版では特に奥村 英二が重要だ。アッシュによると「唯一、何の見返りも無しに助けてくれた人、友達」ということのようなのだが、英二が登場する前から、ショーター・ウォンとは友達だし、アッシュが好きで集まっているギャング仲間も、建前上ジャーナリズムの利害関係と一致としているとはいえ明らかにマックス・ロボも年の離れた友達だ。
何故、自分を守れず足を引っ張るだけの英二がアッシュをここまで惹きつけるのか?は謎のまま、ストーリーは進行するのだが、その視聴者の声を代弁するような存在が、「李月龍(リー・ユエルン)」だ。
ユエルンの正直さ
ユエルンは最初はアッシュを超える知力・身体能力・美貌のキャラとして登場し、良きライバル或いは仲間となりうるように見えて登場し、華僑のヒエラルキーを変えるところまではクールなキャラクターだ。
ところが、彼はアッシュが好き過ぎて、アッシュの親友が英二であることに耐えられず、徐々に英二への嫉妬を隠さない感情表現豊かなキャラクターへと変わっていく。ディノ・ゴルツィネの家に派遣されても狡猾に鍵を盗み出しアッシュに渡してやるような、そんな緻密でスキのなかった筈の彼が、後半の話数へ進むに連れて、無力で感情的な少年に変わっていく。
特に、シン・スウ・リンに「ほっといてよ!」と思わず女の子のような言い方(福山潤さんの演技が素晴らしく的確)をしてしまうシーンは涙なしには見られなかった。
一方で、英二に対してアッシュの隣に居る人物として相応しくないと指摘するユエルンの言動は、視聴者の声の代弁でもある。「何故アッシュはそこまで英二を気にかけるのか?」「おぽっと出でアッシュに何度も助けられるだけの足手まといが、何故こうも自信満々に「アッシュを助ける・力になりたい」などと言うのか?」そう思いながらずっとアッシュと英二を見ていた視聴者にとって、英二が溺愛されることの謎を作り手も自覚した上でストーリーを進めていたいことを知って、何故か安心してしまった。「そうだよね。作者も自覚しているんだね。」と。
英二のことはわからない、だがそれでいい
結局のところ、何故アッシュがそこまで英二にこだわったのかは分からないままエンディングを迎える。だが、明確に表現されないだけであって、何か琴線に触れることがあったのだろうと思う。
もしかすると、本当は英二の棒高跳びの美しさに惚れたのかもしれないし、生死や欺瞞に満ちた世界を見てこなかった純粋な瞳に憧れを感じたのかもしれない。アッシュが好きだというならそれでいい。
最終的には、そんな感想を抱いて納得した。
本作に出てくる人はみんなアッシュが好きだ。もしかすると違う出会い方、違う愛情表現の仕方があったら、全然違う世界になったかもしれない。そんな妄想と寂しさを感じる作品だった。
第1期のエンディングが好き。
第2期のエンディングも、イントロから泣きそうになる。