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時は「原体験」ムーブである

最近Twitterでフォローした人たちの中に一際凄い人たちが居るのですが、その中で色々な人の「原体験」を掘り出す方が居ます。

最近は自己啓発本がわりに、よく読ませて頂いています。

原体験が元になっている人の熱量

一連のリプライの中で出てくるCEOひつじjさんのエピソード「ほぼ無一文になってなお、自ら靴磨きで稼ぐ、という選択肢をとった」は、なかなかインパクトがあります。普通はできないことですが、この新年のツイートが、この人の出発点だと思います。

ジャック・マーが騙されて帰国する費用がない中、空港のスロットマシンで稼いで、しかも帰らないでアメリカの別の場所へ商売のネタを探しに飛び立った、というエピソードと重なりました。

自分の原体験を探すのは難しい

一方で、多くの人にはそこまでのバイタリティのある原体験というのはなかなかないのではないでしょうか?

私も「~によって社会の~を解決したい」というレベルにブレイクダウンされた原体験はありませんが、自分が日頃から妙に普通の人より気になってしまう点が、恐らくヒントになるのではないのかな?と思っています。

身長が低いことはコンプレックスでした

今では特に気にするシチュエーションにならないのですが、子共の頃は背が低いことがコンプレックスでした。

  • 並ぶときはいつも一番前=先生しか見えない、後ろの子が何か楽しそうにしているのも何かわからない
  • (背が低いからではないけれど)かけっこが遅い
  • (本当は別の原因だけど)モテない
  • そもそも「背が高い方がいい」という世の中の空気がある

小学校・中学校の頃は、背が急に伸びたら良いなぁといつも思っていました。

「ごまめ」

私が子供の頃に住んでいた大阪には「ごまめ」という言葉があります。「能力が劣っている人を特別扱いしてあげる」という意味です。

小学生の遊びと言えば、おいかけっこや掴み合い・なげあいが勝敗を決める遊びが中心でした。故に、「背が低い」+「かけっこが遅い」+「筋力がない」という私は、全く遊びで勝つことはなありません。自分が悔しいばかりでなく、周りからしても張り合いがないので、そのママでは全くおもしろくありません。私の場合だけ「三回タッチしないと捕まったことにならない」といった特別扱いが必要になってきます。それが「ごまめ」ということです。

私はこれがとてつもなく嫌でした

  • 一人前として扱われない
  • 何で同じ学年やのにお前の方が偉いねん
  • ちょっとはよ生まれてデカイだけやないか

という悔しさです。

周りの人からすれば、「良かれと思って」ということだと思いますが。

AKIRAの「島鉄雄」

そんな悔しさを代弁するようなキャラクターが「AKIRA」の「島鉄雄」です。彼はいつも兄貴肌の金田に助けて貰っていて、それはそれで仲の良い風景ではあったのでしょうが、いつも金田が守る側で鉄雄は守られる側という上下が嫌だという気持ちもあったのでしょう。映画を見ているときに”わかるなあ”と思っていました。

どういうことが気になってくるのか?

これが他の人の「原体験」と同レベルなのか?というと掘り下げがまだまだ足りないと思いますが、このような原体験(仮)があると、例えば以下のようなことが気になってきます。

  • 人から強制されるのが嫌
    • 「ルールだから守れ」と言われてもルールを制定した目的が理解できない間は一切従う気になれません。何の権利があって貴方は強制しているのですか?という気持ちにしかなりません。
  • 一人で決める上司やリーダーが嫌
    • 「任せることが大事」とはよく言いますが本当にその通りだと思います。プロジェクトの一挙手一投足をマイクロマネジメントしたり、チームのメンバーにアイデアを聞く前に自分でプロジェクトの方向性を全部決めてしまうタイプの上司やリーダーがとにかく苦手になります。
      • これは更に「全部決めて欲しいんですわー」という受け身のチームメンバーにイライラする、というレベルにも波及します。
  • 人と人に序列をつけるのが嫌
    • 母校の大学では嘗てミスコンが開かれようとしたことがありました。結果、左翼的な大学でしたのでジェンダー問題から中止(学園祭とは無縁の有志イベントという扱い)となりましたが、ジェンダー問題以前に、人が人に序列をつける、という行為自体も生理的に受け付けられません。
  • ”勝ち負け”への興味がなくなる
    • 人に上下をつけるのが嫌いであれば、”競争する”ことも嫌いです。誰が買った、誰が負けたという話題に興味が持てません。それぞれがそれぞれに頑張ればそれで良いじゃないですか?

ざっとこのような傾向があります。

誰か一人が強いチームよりみんなが強いチームが好き

総じて「人が人と人の間に上下を作ることがなくなって欲しい」ということになるのかと思いますが、好きな映画のストーリーのタイプにも繋がります。

有名なチューリングテストアラン・チューリングさんを題材にした映画ですが、彼は個性的な性格ながら戦時中の暗号解読のチームでドイツの暗号を理解したときの楽しそうな職場の雰囲気がすごく良い映画です。(その他はなかなか暗い映画ですが・・・)

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーもVol1は、はぐれ者がチームを組んで対抗するストーリーでした。

また次の作品は、月へ行くロケットに関わった女性技術者の活躍の話ですが、FORTRANを学んで生き残ろう!と呼びかけてチームで生き残りをかけたり、仲間同士で協力し合うシーンもあります。

「多様性がある職場」という魅力

「リーダーが決めてウォータフォール型で開発、というスタイルではなく、多様性があって異なる意見を持つ人同士が違いを認識しながらチームとしての生産性を上げていく」

様々な得意先を担当しましたが、たまに上記のような組織やチームに出会うと楽しそうだなぁと思います。そんなチームが理想だと思っているばかりに、「多様性が大事である」と書かれた本ばかり目につきます。

ここ最近読んだ本でも類する指摘があり、とても共感しました。

グローバルで人材確保が必要な時代では多様性確保が大事

企業も変化に応じて必要な人材は変わるし、本人の適材適所な場所へ転職したり異動したりが大事。一人が全てできるのではなくチームとしてできるように組み合わせる

色々な個性があるから寛容性を持つリーダーが大事

何をしたいか・何ができるかは決まりませんが

「自分が気になること」だけがあっても、それは「稼ぐこと」に必ずしも直結しませんし、得意なこと、保有スキルとも連携していないと、自分がやらなければならないことにもなりません。

大学の授業でも衝撃を受けたことがあります。「人の心は社会的に決定する」という社会心理学の定説です。

つい最近も顕著な例を見ました。 www.u-psychiatrist.net

組織の中で周りに流されている間は、自分が不幸だとも思いません。しかし別の組織・コミュニティに行けば、異なる感性に変わります。人が生きやすい環境にするのは、制度設計だったりインセンティブ設計だったりします。

期末の利益を最大化させることに組織のKPIが設計されていれば東芝チャレンジのようになりますし、売上がKPIに設定されていれば薄利多売が起きます。こんな単純なことでも組織の空気や風土は変わるものです。

他にどのような手法があるのか、政治なのか、権力なのか、わかりませんが、 「人が人に序列をつけず多様性のある社会」が広がるべきだと思っています。