【ネタバレ有】All You Need Is Kill のエピソードゼロ感とメロドラマの構造
ハリウッド映画化で話題の「All You Need Is Kill」を読んで、とても”エピソードゼロ”を感じました。
ここで言う「エピソードゼロ感」というのは、勝手な造語ですが、丁度適切な語彙が出てこなかったので勘弁して下さい。
一通り話が進んだ後で、どうしてこの主人公が誕生したのか?を振り返る回だったり、
どうしてこのチームが結成されたのか?という振り返りや、ファーストコンタクトをさかのぼったり、
そういう「後日談」の逆のような意味です。
では、どうしてそんな印象を持ったのかというと、
(*以下、ネタバレ含みます。)
「ヒロイン(と思われる女性)が死んでしまうから」だと思います。
本作では、ご承知の通り、クライマックスで、主人公かヒロインかどちらかしか生き残れないという局面があり、
主人公は、ヒロインを倒して、ヒロインがそれまで果たしてきた役割を受け継ぐ決意をして終わる、
というとてもカッコイイ締まり方をしますが、
僕は、少し消化不良でした。
何故、消化不良だったのか読後翌日まで理解できないで居ました。
確かに、カッコイイ終わり方だし、二者択一を迫られて尊敬する人を倒してその遺志を継ぐというのは、とても好きなシチュエーションです。
でも何か腑に落ちない。これで決着した感じがしない。。。
やっと気がついたその消化不良の原因は、
死ぬのが、先輩や同僚や師匠ではなくて、”ヒロイン”だったからでした。
僕は、知らず知らずに、古典的ハリウッドの文法である、メロドラマの枠組み取り込まれ、
メロドラマ的結末(=ヒロインと主人公が結ばれてハッピーエンドを迎える)を期待していたのです。
ところが、クライマックスで、自分の勝手に期待していたメロドラマ的結末を裏切られてしまい、
主人公とヒロインが結ばれることが無いという条件がつきつけられたのです。
しかし僕の潜在意識は、まだ古典的ハリウッドのメロドラマを期待しています。
つきつけられた現実を受け入れることができずに、
その瞬間から、
「本作のヒロイン(と思っていた人=リタ・ヴラタスキ)は、本来のヒロインではなかったのだ。だから死んだのだ。」
「本当のヒロインは、もっと別に存在していつか主人公(キリヤ・ケイジ)と結ばれるに違いない」
と僕の脳は、補完を始めます。
その結果、僕は、本作は「エピソードゼロ」であって、この後、本筋のドラマが続いているのだ、という妄想を始めました。
それが、本作から感じる「エピソードゼロ」感の根源だと思います。
All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)
- 作者: 桜坂洋,安倍吉俊
- 出版社/メーカー: 集英社
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